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佐賀地方裁判所 昭和54年(ワ)124号 判決 1985年7月10日

原告

若林英子

右訴訟代理人

元村和安

被告

小池則雅

右訴訟代理人

安永澤太

安永宏

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金二〇〇〇万円及びこれに対する昭和五一年七月七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  第1項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和五一年七月七日のどがかすれるような症状があつたので、これに関し医師である被告に診察及び治療を依頼した。<以下、省略>

理由

一請求原因1の事実は当事者間に争いがない。同事実によれば、原告は昭和五一年七月七日被告との間でのどがかすれる症状に関する診察、治療を目的とする準委任契約(いわゆる診療契約)を締結したということができる。

二請求原因2の事実中、被告がキシロカイン水溶液で原告にうがいをさせたため原告がショック状態に陥り、即日久留米大学医学部附属病院に入院したことは当事者間に争いがなく、右事実と前記一の事実に<証拠>を総合すると、以下の事実が認められる。

1  原告は、昭和五一年七月七日被告経営の病院に初来院し、咽頭痛を訴えた(受付においてはのどに異物感がある旨申述した)。被告は原告が初診であつたので既往症を尋ねると、原告は佐賀市神野の小川耳鼻科医院で診て貰つたが、同医院でのどがやや大きく腫れているといわれたため来院したと答えた。被告は早速原告ののどを舌圧子とライトを使用して(このとき原告は嘔吐感を催した)一覧したところ、全般的に咽頭が腫れており、腫瘍状に盛りあがつている(びらん状態にある)ことが認められた。

2  被告は右症状を必ずしも重大なものとは認めなかつたが、原告が他医院で受診のうえ来院したことでもあるので、より詳しく診察しようと思い、できれば組織検査(生検)もした方がよいと判断した。そこで被告は右診察、検査を行なおうとしたが、前記のとおり原告が舌圧子によつて嘔吐感を催したので原告の咽頭部分を麻痺させるべくキシロカインの希釈液によつてうがいをさせることにし、これに先立ち原告に対し、従前における、薬剤の使用に対する異常反応の有無を確認したところ、そのようなことはないとの返事であり、顔色や全身状態にも格別異常はないものと認められたので、そばにいた看護婦長渡島和子に対し、原告に四パーセントキシロカイン液五ミリリットルを一〇ミリリットルに薄めたうえこれを二、三回にわけてうがいをさせるように指示した。

3  渡島は、被告の指示に従い、処置室の棚からキシロカイン四パーセント液の壜を取り出し、壜から同液五ミリリットルをうがい用専用コップにあけ、これに五ミリリットルの水を加えてキシロカイン二パーセント水溶液一〇ミリリットルに調合し、これを看護婦(但し当時准看免許取得前)井上栄子に手渡した。井上は、かねて被告から指示されていたとおり、原告に対し、薬剤に対するアレルギーがないかどうか、また気分はどうかときいたところ、原告はアレルギーは別にないし、気分も悪くないと答えたので、前記キシロカイン水溶液を三回にわけてうがいするように、但しうがいをするだけで飲んではいけないし、気分が悪くなれば早目に申し出るようにと注意したうえ、同水溶液を渡した。

原告は、同日午前一一時一五分頃から、病院内の洗面所で右指示どおりに前記水溶液を三回に分ける見当でうがいをしはじめたが、二回目のうがいの途中に気分が悪くなつたような様子をみせ、そのうがいを終えるや同所で付添つていた井上によろよろともたれかかつてきた。井上は折から通りかかつた看護婦の黒田美紀子の助けを借りて原告を近くのソファに横にするとともに、渡島に急を告げた。そして渡島はこの事態をすぐ被告に知らせた。

4  被告が同日午前一一時二〇分原告をみると、原告は次第にけいれんを起こしはじめチアノーゼ気味になつてきて容態の急変が窺えたので、即座に原告を処置室に運び込んだ。しかして原告は呼吸困難の状態を呈し、けいれん、チアノーゼもますます激しくなつたので、被告はまず気道を確保すべく開口器で原告の口をあけ気道押管したうえ、麻酔器を固定してバック操作を行なつて加圧酸素を送り込む一方、右足にキシリット五〇〇ミリリットルを点滴注射するとともにオルガドロン(副腎皮質ホルモン)一〇アンプルを注射するなど緊急措置を講じた。

5  原告は、同日午前一一時三〇分右人工呼吸が効を奏したのかチアノーゼが消失し、顔色もよくなつたが、なおけいれんが収まらず、眼瞼反射等生体反応も乏しいまま午後二時位まで危篤状態が続いた。この間、被告は原告に対し、自ら又は看護婦に指示して、けいれんを抑えるべくアレビアチン、サクシンなどの抗けいれん剤を、高熱を下げるためにスルピリン(解熱剤)を、血圧の上昇に対処するためレセルピン(血圧降下剤)を、逆に下がりすぎた血圧をあげるためにエホチール(昇圧剤)を、その他呼吸促進剤、脳細胞賦活剤、副腎皮質ホルモン等各種の注射を行なつて原告の蘇生につとめた。なお、当日は、久留米大学附属病院第一外科の医局に所属していた医師助廣一幸の週に一度の来診日にあたつていて、助廣は遅くとも午後一時半頃には到着して、看護婦にブドウ糖の注射を指示したり、自らバック操作を行なつて被告を助けた。

6  原告は同日午後二時一〇分体動しはじめ、やがて自発呼吸もでてきたので、被告は人工呼吸器をはずした。また原告は体温も最高時よりはかなりさがり、眼瞼、膝蓋腱反射等もわずかながらみられるようになつた。被告は原告に対しシチコリン(意識障害回復剤)を注射して意識の回復をはかるとともにラシックス(利尿剤)を注射してショック状態によつて生じる浮腫の除去を行なつた。しかし意識が回復しないので、被告は同日午後四時五五分頃原告を久留米大学附属病院に搬送した。原告はそのまま同病院脳神経外科に入院して集中的治療を受けた結果、翌八日午前緩慢ながら呼名反応を示すようになつて危機を脱し、以後徐々に意識を取戻していつて回復したが、記銘力障害、頭痛、頭重感は消失しなかつた。そのため同月三一日から同年一二月二五日まで同病院精神神経科に転科(入院)して治療を受けたところ、右各症状は軽度の改善がみられたもののなお残存し、現在も健忘症候群の後遺症をとどめている。

以上のとおり認められる。<証拠>によれば、同号証中診療録現病歴経過欄に「二パーセントキシロカイン一五ミリリットルうがいをした」との、看護日誌の入院迄の経過欄に「四パーセントキシロカイン一五ミリリットルて含嗽する」との各記載の存することが明らかであるけれども、その余の前掲各証拠及び久留米大学医学部附属病院脳神経外科に対する調査嘱託の結果(昭和五九年四月二一日付調査回答書)によれば、いずれも作成看護婦の誤記であることが認められるから、右認定を左右せず、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

三右認定事実によれば、原告が意識障害を伴うショック状態になつて一時は危篤の事態に陥り、結果として健忘症候群の後遺症を残すに至つたのが、キシロカイン水溶液でうがいをしたことによつて生じたことは明らかである。そこで、右のショック状態がいかなる原因(発生機序)で生じたかについて検討する。

1  <証拠>、鑑定人十時忠秀、同進武幹の各鑑定結果を総合すると、以下の事実が認められる。

(一)  本件ショック状態発生の原因として考えられるものは、(1)局所麻酔剤であるキシロカインによる中毒、(2)同剤によるアナフィラキシーショック、(3)心因性反応が挙げられる。

(二)  局所麻酔剤(以下局麻剤と略称する)による中毒は、局麻剤が注射や吸入等(本件の場合はうがいによる口腔粘膜からの吸収)により体内に入り、血中濃度が急激に高まつて一定量に達したときに全身のけいれん、血圧下降、呼吸抑制等の中毒症状が発現することがあるというものであつて、本件の局麻剤キシロカインの限度量については諸条件に左右されるものの、四〇〇ミリグラムから五〇〇ミリグラムが極量とされている。但し、気道内表面麻酔の場合には気道粘膜の吸収度が大であるので、二〇〇ミリグラムないし三〇〇ミリグラムを限度とすべきものと一般にいわれている。

(三)  アナフィラキシーショックについては、必ずしもすべてが解明されているわけではないけれども、一応、心臓、末梢血管、毛細血管のアレルギー症状の総称であつて、アレルゲンの投与によつてビスタミンとか、SRS―Aとかの物質が遊離し、これが末梢血管に作用して起るショックと考えられ、その背後に抗原抗体反応のある場合をいうとされ、その発現は薬液量に関係なく、発現時間も注射であれ吸入であれきわめて短時間に出現し、その症状は、末梢血管の循環不全のため血圧が急速に低下し、そのため全身蒼白となり、やがてチアノーゼを来すほか、呼吸困難を呈する。そして、本来が抗原抗体反応であるためまず何かがあつて感作して抗原が入つて抗体が出来、それから抗原抗体反応が起こるはずであるが、キシロカインあるいはペニシリンなどのいわゆる注射ショックといわれるものの現実の発症例では、その大部分は一回目の注射の時に生じ、二度目の注射で生ずるのはきわめて稀であるとされる。もつともキシロカインはアミド系の局麻薬としてショックの少ないものとされており、耳鼻咽喉科領域において粘膜の表面麻酔剤として広く使用されており、被告にしてもこれまでキシロカインによるアナフィラキシーショックに遭遇したことはない(なお前掲乙第一四号証の二中には、四パーセントキシロカイン一〇ミリリットルすなわち四〇〇ミリグラムを気管内に噴霧し、その直後にショックを起し死亡した例(三七歳女)のあつたことの報告が引用されている)。

以上の事実が認められ<る。>

2 右1の事実に照らして本件をみると、前記二で認定したとおり、原告はキシロカイン四パーセント液五ミリリットルを一〇ミリリットルに薄めたうがい液を三回にわけてうがいするつもりの途中二回目を終えた直後にショック状態に陥つたのであるから、原告の体内に吸収されたキシロカインの量はせいぜい一五〇ミリグラム程度で、二〇〇ミリグラムには達していないものと考えられること、そして原告のけいれん、呼吸困難の症状はうがいを始めた後わずか五分を経過しない前に出るなどきわめて短時間に発現し、症状の内容、程度も意識障害が強く、自発呼吸がないという重篤なもので、しかもショック状態の改善のための人工呼吸、抗けいれん剤、副腎皮質ホルモンの注射等がなされたにもかかわらず、状態の改善に相当の時間を要したものであつて、これらは右1のアナフィラキシーショックによる症状経過等に概ね一致するというべきである(前掲鑑定人十時忠秀の鑑定結果及び証人十時忠秀の証言中には、原告が初期の段階からけいれん症状を呈していることに着目して、けいれんは局麻剤中毒の必発症状であるから、その点からみると、急性中毒が考えやすいとする部分があるけれども、法廷における十時証言は結局のところ原告の症状はアナフィラキシーショックの可能性が強いというものであるのみならず<証拠>によるとアナフィラキシーショックの場合にも初期症状としてけいれんが認められる例が存することが認められるのであつて、けいれんが頻繁に発現しているからといつてアナフィラキシーショックでないとはいえない)ところ、前記のとおり吸収量が二〇〇ミリグラムに達していないことから中毒症状とみるには無理があること、また本件はうがいによるもので、注射への不安、恐怖といつた心因反応を窺わせる事情も本件全証拠によつても認められないから、結局、原告の本件ショック状態の原因は、原告のキシロカインに対する異常反応、すなわち特異体質によるアナフィラキシーショックであると認めるのが相当である。

四そこで、被告の責任について判断する。

1  キシロカイン使用の必要性

原告は、被告は原告の前の通院先における治療状況等について十分調査したうえ、キシロカイン使用の必要性を慎重に判断してこれを使用すべきなのにこれを怠つたと主張する。しかしながら、前認定のとおり、被告は、原告を診察した際にその咽頭部にびらんを認め、かつ原告は一度他の医院で受診のうえで来院したものであるから、さらに詳しい検査の必要性があるものと考え、その検査をなすにつき原告が当初の舌圧子の使用に対し強い嘔吐感を催したことに鑑みて、嘔吐感を起させずに咽頭部を観察するため、同部を一時的に麻痺させるべくキシロカインを使用したものであつて、その措置は事宜にかなつたものであり、しかもキシロカインは局麻剤のなかで最も安全なものとして広く用いられ、アナフィラキシーショクを起こす例がきわめて少ないことから、被告はこれを局麻剤として選んで原告に使用したものであり、もとより当然の選択というべきである。従つて、被告が原告の従前通院先の治療状況等について十分調査しなかつたことをもつて診療債務の不完全履行ないし過失ということはできず、本件において局麻剤としてキシロカインを選択したことを非難することもできない。

2  問診その他適切な検査等の施行について

原告は、被告が原告に対しキシロカインを使用するにあたつてはこれによつて原告の身体に何らかの異常が生ずる危険がないかを問診その他適切な方法によつて確認する注意義務があるのにこれを怠つたと主張する。

しかしながら、前記のとおりキシロカインによつて患者がアナフィラキシーショックを起こす可能性はきわめて少なく、同剤は最も安全な局麻剤として広く用いられていること、しかも<証拠>によれば、アナフィラキシーショックを予知するために最も必要なのは患者に対する問診で、現状では患者に対し、事前に、今まで薬を投与されたときに気分が悪くなつたことはないか、喘息、じん麻疹等のアレルギー症状を起こしたことはないか、局麻剤を使用したことがあればそのとき異常はなかつたかといつた程度のことを確かめるのが一般的に行なわれている方法で、右の問診以上に安全、確実な事前チェックはないとされていること(鼻孔テスト、皮肉テストも特異体質を予見するための有効策とはみなされてはおらず、また逆に高過敏性の人では微量のテストでもアナフィラキシーを起こす場合があるといわれている)が認められるところ、本件において被告がキシロカイン使用前原告に対してこれまでに薬剤の使用により身体に異常があつたことはないことを問診して確認し、かつ、原告の顔色等全身状態に格別異常がないことを看取してキシロカイン水溶液の使用を決め、更に実施にあたつて看護婦にもう一度同様の問診をすべきことをあらかじめ徹底させ現に右問診をさせたうえでうがいを行なわせたことは前記二で認定したとおりであるから、被告がその他の事前テストをしなかつたことを捉えて、被告の診療債務の不完全履行もしくは過失ということはできない。原告の主張は採用できない。

3  看護婦によるキシロカイン水溶液の調合について

原告は、被告の履行補助者ないし被用者たる看護婦が誤つて適正濃度を超える濃度のキシロカイン水溶液を与えてうがいをさせた結果原告に中毒症状を発現させたものであると主張するけれども、前記二3で認定のとおり看護婦長渡島は被告の指示どおり四パーセントキシロカイン水溶液五ミリリットルを取り出しこれに五ミリリットルの水を加えて二パーセントキシロカイン水溶液一〇ミリリットルを調合作成したものであるから、右の主張はその前提を欠き、かつ原告の本件ショック状態がキシロカインの中毒によるものとは認め難いことも前記三に説示したとおりであるから、原告の主張は採用することができない。

4  以上述べたとおり、被告が原告に対しキシロカインを使用したこと、またその使用前における問診による事前チェック、キシロカインの濃度や使用方法に関して被告に何ら落度はなく、更に前記認定事実によれば、被告が原告にショックが発生した後に原告を蘇生させるべくなした緊急措置についても特段不適切な点は見出し難い(前掲鑑定人十時忠秀の鑑定結果中には被告の事後処置について「何らかの後遺症が残つたとすれば完璧であつたとはいえない」との記載部分があり、法廷においても同趣旨の証言がなされているけれども、結果的にみて完璧ではないと推定するにとどまり、具体的処置の当不当については全く触れていないのであるから、右の指摘をそのまま採用することはできない)から、結局、本件において、被告に診療債務の不完全履行ないし過失を認めることはできない。<以下、省略>

(裁判長裁判官綱脇和久 裁判官森野俊彦 裁判官甲斐哲彦)

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